日本を代表する企業(企業グループ)の会計不祥事について,当該企業のみならず,日本企業全体の企業統治や証券市場の公正に対する「信頼」を害するものであるという批判はもっともらしく聞こえますし,当の当事者は,そう責め立てられても,何とも返す言葉はないでしょう。
筆者の生活の範囲では,そのような日本を代表するような企業体がかかわることはありませんが(せいぜい,製造後10年以上たった当該社製の我が家の電子レンジの調子が,すこぶる快調で,さすがはメイドインジャパン,と驚くばかり,ということだけです。),稚内の駅では,鉄道事業者としてお客様の信頼を害して・・・という掲示が今でも貼ってあり,そうもうるさく「信頼を・・・」と言われると,むしろ,
正直,「そんなに過度な期待は持っておりませんが・・・」と,思ってしまうのは,筆者だけでしょうか。
しょせんは,不完全であるところの人間の行動やその人間が作った製品やシステムが,完全である(絶対に,事故や不祥事が発生しない)ことを期待する,期待できる,というのは,ある種の「安全神話」,幻想に思えます。故に,事故や不祥事が発生すると,必ず巻き起こる,期待が裏切られた,「信頼が害された」の大合唱は,「神話」「幻想」である現実を突きつけられ周章狼狽しているようにしか見えません。
ちなみに,筆者は,もちろん,飛行機も鉄道も長距離バスも,使いますし,調子が悪ければ,病院にも行きます。クールに評価して,何にお金を払うのか,と言えば,スピード(時間短縮の効果)であったり,労力の省略の効果(自分で運転しなくていい,居眠りができる)であったり,病気の症状が改善される効果であったり,しますが,安全であることは,それに対価を払う対象(便益),というよりも,コスト(移動方法のメリットが,それを使うことの危険(リスク)に見合う(上回る)か,という意味での考慮対象。)的要素です。
交通機関も証券市場も,「安全」「公正」であること,そうであるという「信頼」は,何の担保もありません。しょせん,人間のやることですから,事故も不祥事もあります,だから,「それは起こりうる」前提で,そのコスト(リスク)を負っても,やっぱりスピード重視なのであれば,当該システムを使えばいいし,それでもやっぱり配当利益や売却益が欲しいのであれば,証券会社に行けばいいし,それがいやなら株などに手を出さないことです。そもそも,筆者は,巨大で複雑な現代社会のシステムが「安全」「公正」であると信頼できるほど,その内容に詳しくありませんし,それを動かしている人を知りもしません。
筆者も,むかしは,「情報開示が不完全であれば自己責任を問う前提を欠く」とか,「そんなリスクがあるとは,普通,思わないでしょう。」とか,わかったようなえらそうなことを言っていた一時期がありましたが,なぜ,「普通,思わない」のか,「それは起こりうる」前提でフェアーに考えれば,ある種の「割り切り」以外のなにものでもありません。なにせ,ここ北海道は,自分の方は青信号でも,交差点では横から時速100キロ超のスピードで突っ込んでくることがあり得る世界です。そういう世界で生活するには,そんなことは普通起きない(レアケースだ)と割り切るか,あるいは,絶対に起きないとは言えない(という危険な世界に,身を置いている現実がある),と腹をくくるかしませんと,車は運転できませんし,生活も成り立ちません。
絶対あり得ないことがおきた,けしからん,と怒りの鉄拳を振り回したり,責任追及に走ったりするのではなく,起こりうることは起こりうるという当然の事態に対して,社会が個人が日頃からどう備えておくか,が重要でしょう。